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仏教とともにその歴史を刻む、龍来の国ブータン。 |
Photo by Lincoln potter |
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ブータンという名前は古代のインドの言葉、Bhotsの「地の果て」という意味にあたる「Bhotanta」から由来しているといわれています。Bhotとはサンスクリット語でチベット人という意味。従ってブータンとはチベットの果ての地という意味でもあります。また、サンスクリット語のBhu'uttanや高地といった意味も考えられ、確かなことはわかっていません。古代チベット人の作家たちは近隣地域のことをロ・モン(Lho Mon)=南のパラダイスやモン・ユル(Mon Yul)=Monpasの地と呼んでいました。
ブータンの人々は自分たちの国のことをデュルック・ユル(Druk Yul)=穏やかな龍の地と呼んでいます。デュルック(Druk)は龍という意味で、チベット密教の優れたデュルック派(Drukpa)という意味でもあります。
更に1896年に起こった大地震とパロ・ゾン
の火事で、最初の災害の記録を少し残した以外すべてなくしてしまいまったのです。
これらの逆境にもかかわらず、この小さな王国が他の周辺国とは違うという歴史を紡ぐのに信頼できる十分な情報が記録されていました。
紀元747年グル・リンポチェ(Rimpoche)として知られているパドマサンバヴァ(Padma Sambhava)は雌の虎の背中にまたがり、空を飛び山々を越え、チベットからやってきたという伝説が残っています。
現代の王家の先祖を含む高名なブータン人の先祖の多くはニンマ派の出です。最もよく知られているニンマ派上人のペマ・リンパ(Pema Lingpa)は1521年、故郷のブムタン(Bumthang)で亡くなりました。彼はグル・リンポチェと哲学者Longchen Rabjampaの生まれ変わりといわれ、生涯にブムタン渓谷にあるペツェリン(Petsheling)、クンザンドラ(Kungzandra)、タムシン(Tamshing)に寺院を建立し、ペマ・リンパの末裔の多くはニンマ派が力を強めた東部に定住しました。
デュルック派のチベット人ラマ僧ンガワン・ナムゲル(Shabdrung Ngawang Namgyal)が宗教的に厳正な政府と非宗教的な政府を合わせた現代の国家体制を考案しました。
1616年にブータンに彼が招かれた当時、中央政権国家は存在せず地方の争いが、何世紀もの間断続的に繰り返されていました。何とか国を統合しようとするうちに、彼の宗派の多くの人々の強力な支援を得て、西ブータンの主な渓谷にゾン
(王城と訳される堅固な要塞のような寺院)を建立しました。 ンガワン・ナムゲルは1639年にチベット人との戦いに勝ち、「その足元に服従す」という意味のシャプドゥン(Shabdrung)の称号を得ました。彼は政治権力においても宗教権力においても、事実上ブータン初の指導者となったのです。国を統一後、シャプドゥンを国の最高指導者とし、政治面ではデュルック・デシ職(Druk Desi)に民事権力を与え、宗教面での最高指導者としての大僧上位ジェー・ケンポ職(Je Khenpo)に委ねました。そして国は行政区に分けられ複雑な法制度が成文化されるにいたったのです。 ブータンの初代シャプドゥンは1651年に亡くなり、彼の死後5年もたたないうちに国家すべてが中央政府の元に統治されました。ラパ(Lhapa)権力のなごりも消え、デュルック派は宗教的にも民事的にも権威の中心となりました。が、その後の2世紀の間、内戦状態が続き、地方の豪族がだんだん力を持つようになってきました。19世紀の末、中央及び東ブータンを統制していたトンサの豪族( Penlop of Tongsa)が最大の敵である西ブータンを統制していたパロの豪族(Penlop of Paro)に勝ち、ブータンの総合的な指導者になりました。トンサの豪族であるワゲン・ワンチュク(Ugyen Wangchuck)が宗教、政府、人民の代表となり1907年ブータンが改めて統一され、初の国王に選ばれたのです。 以後王制は栄え、現在も初代国王の曾孫にあたる国王ギグメ・センゲ・ワンチュク(Jigme Singye Wangchuck)が圧倒的な力で人民を統率しています。 |