醒めない夢
----- 序章 (1) -----

桜鱒のシーズンが終わり、なす術もなくその日その日をやり過ごしている沢田に、岩井から電話が入った。岩井とは長い間渓流釣りを一緒にやっていたのだが、最近ではもっぱら夜の釣りばかりやっている岩井に沢田は愛想づかしして、単独での釣行が増えていた。酒の誘いなら断ろうと、岩井の第一声を聞いて沢田は思った。

「いい話があるんだが」

「夜釣りはお断りだ」

「違う違う。岩魚だ」

「俺はもうジャコ釣りはやめたんだ。今は桜一本だ」

「で、駄目だったんだろうが、今年も」

「こんな晴天続きじゃな。雨が降らなきゃ、話にならんよ」

「へへえ、だからだな、岩魚なんだよ。それも、六十センチオーバーの」

「そんな岩魚、今じゃもう年に一匹釣れるかどうかだろう」

「へへえ、それがだな、いるんだよ、ウジャウジャと川中に」

「それ位のサイズになりゃ、湖だろ。餌かルアでなきゃ釣れない。毛針でなきゃな」

「心配御無用。ちゃんと毛針で釣れるんだ」

「どの川の話だ。いつの話だ」

「どの川かは言えないが、去年の秋には確認してる」

「で、今年はもう終わりって話じゃないのか」

「大丈夫、まだ誰も知らないんだ」

沢田は鼻白んだ。誰も知らない情報などこの世にありはしない。絶対に儲かる話などありはしないのと同じだ。とりわけ釣りに関する情報のいい加減さときたら、他に比べるものがないほどだ。先週大釣りしたからといって行ってみても釣れた験しはない。釣れたということは、もう釣れないということだ。誰も知らないことを岩井が知っているというのなら、他に何人かが知っていても不思議ではない。

「誰も知らないってどうして分かるんだ」

「どこにも載ってない情報だからだ」

「どこにも載ってないのにどうして知ってるんだ」

「取材で行ったんだよ、去年。ちょっとした撮影だったんだが、あんまり渓相がいいんで川原まで下りてみたんだ。ところがだ、いるんだな、ウジャウジャと。六、七十センチはありそうな奴が淵にたまってるんだ。最初は虹鱒かと思ったんだが、丸々と太った岩魚なんだ。斑紋があるし脂鰭もしっかりあるのを確認した。写真もちゃんと撮ってある。俺は驚いたね。お前に見せたかったよ。で、その後川伝いに戻ってくる途中、漁協に寄って尋ねてみたんだ。毛針で釣れるかどうかってな。そしたら、あれは岩魚じゃなくって鮎だって言うんだ」

「鮎」

「そうだ、落ち鮎だって言うんだ。三十センチの落ち鮎なら分かるが、六十センチの落ち鮎がいるわけないだろ。で、俺は言ってやったんだ。俺は釣り師ですぜってな」

「で、連中はどう言ったんだ」

「結局、岩魚だってことになったんだが、絶対に誰にも言わないでくれって言うんだ」

「自分たちだけで楽しもうって腹なんだな」

「俺もそう言ってやったさ。ところがだ、これが違うんだな。今、実験中なんだって言うんだ」

「実験中。何の」

「温水に岩魚が育つかどうかの実験中なんだと」

「どこの川なんだ」

「だから、行くのかよ行かねえのかよ。俺しか知らないんだぜ」

「何時だ」

「今晩から」

「やけに急だな」

「思い立ったが吉日だろうが」

「そりゃそうだが」

そう言いながら沢田は今日の予定を確認すべく手帳を開いてみた。週の始めだというのに、予定表は白いままだ。殆ど真っ黒になっていた頃が懐かしいくらいの不景気だ。沢田は広告の企画をして飯を喰っているのだが、ヨーロッパの不況に遅れてやって来た構造不況のせいで、花形産業と言われた業種から不況業種に指定され、今や交通費・交際費・広告費という企業の経費節減対象費目として3Kと呼ばれる業種になってしまっていた。急なクライアントからのお呼びがかかることはないだろうことは想像できた。岩井と一緒に渓流釣りに行っていた頃は岩魚もよく釣った。尺岩魚を掛けようと、黒部通いをしたこともある。秋田にまで車を飛ばしたこともある。が、はかばかしい結果を見ないままに桜鱒に転向してしまった。釣り人の増加による魚の減少に加え、砂防堤・堰堤・護岸工事によって渓流が年々荒れていくのを見るのが堪らなくなったことが大きな理由だった。

「幻の尺岩魚じゃなくって、現実の二尺岩魚だぞ」

岩井が追い打ちをかけてくる。

「分かった。どこのインターにするんだ」

「いや、俺が迎えに行ってやる。新車を買ったんでな。夜中に出発だ」

「景気のいい話だな。どっちに来てくれるんだ。オフィスか、家の方か」

「家の方が高速に乗りやすいな」

「分かった。じゃ待ってるぞ、遅れるなよ」