醒めない夢
----- 序章 (2) -----

久し振りの岩井からの電話に沢田は不思議な興奮を覚えた。
ネオンの川の釣りではなく渓流の釣りに行く前の興奮には違いなかったが、二尺岩魚がウジャウジャいる川が一体どこなのかという興味のせいもあった。
なぜなら、沢田の知る限りそんな川はもうとっくにこの国から消え失せているはずだからだった。

沢田は道路地図帳を取り出してデスクの上に広げた。
各頁はそれまでの釣行の度にめくったせいで、頁の端の真ん中が手垢に汚れている。そしてどの頁にも、川に最も近い高速道路のインターチェンジが丸で囲んであり、目印になる建物の名前が書き込んであり、川のポイントには釣れた日時、魚の種類、サイズ、使用した毛針が、赤や黒や緑や青といった、そのとき持っていた筆記道具によって書き込まれている。
岩魚というからには東北地方がメッカのはずなのだが。
沢田は頁をめくって東北地方の県に目を通す。秋田か青森か岩手か。が、すぐにしかしと思う。この地方でこの時期にはまだ釣りをすることは不可能だ。異常気象で温かいといっても一面の雪のはずで、解禁になっているといっても、岩魚が毛針に跳びつくようになるには早すぎる。
四国か、九州かならすでにシーズン真っ盛りの釣りになっているが、岩魚はいない。 となると中部ということになるが、ここも雪がまだ残っている。
岩井によると、温水になじませる実験をしているということだから、温泉があるということか。温泉で有名な中部地方の川ということになると、下呂、平湯、新穂高、湯涌辺りか。 だが、この辺りで大岩魚が釣れるという話は聞いたことがないが。

沢田は想像を打ち切る。
誰も知らない川があるとは思えないが、今は岩井しか知らないのだからまかせておけばいいのだ。それよりも、岩井が来るまでにしておかなければならないことがある。桜鱒用のタックルでは岩魚を釣ることはできない。
そうだ、毛針も巻いておかなければ。春の毛針といえば20番前後のミッジということになるが、それよりもウェットかもしれない。 いや、まだまだニンフの季節かもしれない。
大岩魚ということになると、やはり14番か12番くらいの毛針が必要なのでは。マーチブラウンあたりの毛針でいいのだろうか、それともシンセティックマテリアルの方がいいのだろうか。 ロッドは4番では頼り無いだろう。せめて6番かもしかすると7番がいるかもしれない。
リーダーは5Xか4X、ティペットも4X程度は必要だろう。

沢田はデスクの下からマテリアルボックスを取り出す。
ハックルケープ、ダビング材、種々の獣毛、フック、スレッド、ボビン、針を固定するためのバイスなど、ボックスの中には毛針を巻くためのあらゆる材料が収まっている。
以前は家で巻いていたのだが、子供が生まれたとき、その毛や綿埃が子供に良くないと妻が言うのでオフィスにごっそりそのまま持ってきたのだ。それ以来、ずっとそこに置いてある。
オフィスにある方が気儘に巻けるし、鶏の首の回りの羽根であるハックルケープが鶏を丸ごと十羽も買える値段であることに気づかれなくて済むようになったのがラッキーだった。
が、その妻も今はいない。
つい先日、子供を連れて出て行ってしまったのだ。上手い理由を見つけて慰謝料暮らしをしていこうとしているらしい。
フィッシングウィドゥの逆襲も月並みな類型を見せる。結婚するまではいつも一緒に釣りに行っていたのだが、どうやらそれは毛針ではなく、生餌だったようだ。

そして、デスクの引き出しを開ける。
今までに巻いた毛針がデスクの一番下の引き出しに入っているのだ。 毛針はその種類・サイズごとにボックスに整然と収まっている。
ボックスは全部で七つある。沢田はその全部をデスクの上に広げると、その中からミッジのボックスとウェットのボックスとを手前に引き寄せた。ミッジは毎年一番に解禁になる長良川のシラメ用の毛針だ。
ユスリカのドライにピューパにラーバ。
本当に虫みたいに小さな毛針だ。
頼り無いな、こんな釣りはもうごめんだな。
沢田はそう呟きながらミッジのボックスをデスクの上に放り投げた。ウェットは水中に沈めて使用する毛針だ。
沢田はナチュラルマテリアルでリアルに巻いたこれらの毛針が気に入っている。
発砲スチロールにフックサイズごとに並べられた毛針のいくつかの針先の部分から錆が出ているのが見て取れた。このボックスも長い間開けたことがない。
桜鱒にとりつかれて以来。
沢田は、おもむろにバイスを取り出し、14番のウェット用フックを固定して一思案するとスレッドで下巻きを始めた。