■桶と樽
   ■樽廻船、菱垣廻船
   ■酒と柿しぶ
   ■日本にもあった禁酒令
   ■酒の寿命
   ■返杯
   ■乾杯の始まり

■桶と樽
桶と樽は、一見イメージが良く似ているので、混同されやすいですが、桶は桶側、タガ、底板からなっており、細長い板を円筒形に並べあわせ、底をつけてタガで締めたものです。蓋を使用する場合も多いですが、桶には固定した蓋がありません。これに対し、樽は固定した蓋(鏡)があり、最も桶と異なる点です。容器の大小はあまり関係ありません。 桶には仕込みや貯蔵に用いる大桶(約三十石)、モト育成に用いるモト卸桶(壺代ともいう。三〜四石)壺代を半分にしたような半切桶(一石前後)、水を運んだりする試桶(一斗)など大小様々なものがあります。 樽にも四斗樽、二斗入りの半樽、一斗樽などがあり、形状によっては指樽(さしだる)、遍樽(ひらだる)柳樽、角樽などがあります。また、モトを暖める暖気樽(一種の湯たんぽ)というのもあります。 桶も樽も主に杉材が使われ、吉野杉や秋田杉が好まれ、樽詰めの酒には杉から移る一種独特の木香(アルデヒドが主体)があるのが特徴です。

■樽廻船、菱垣廻船
灘の酒が栄えた理由の一つに、水運の便の良さがあげられます。江戸の初期、大阪では船問屋が次々と発生し、灘酒は船問屋の持ち船である菱垣廻船によって、他の商品とともに江戸へ送られました。舟の漁舷に竹を菱形に組んで垣を作り、滑りやすい甲板上に樽を安定良く積み、船が傾いても荷崩れしないように工夫されていました。 船の側面の形が菱状の垣に見えるところから、菱垣廻船と呼ばれたといわれています。 元禄の頃になると伝法にあった小早という船問屋を前身に、酒輸送専門の廻船が誕生しました。こらは、安定性のある優美な和帆船で、樽廻船と呼ばれていました。船足も速く、積載量も千五百丁積みにまで改良されていました。しかし残念ながら、時代の波には勝てず、明治の初期に出現した洋式帆船や汽船の性能の優秀さに押され、廃業のやむなきに至ります。

■酒と柿しぶ
清酒に柿しぶが使われていると聞いて、奇異に感じる人が多いと思いますが、年間およそ500Klリットルの柿しぶが清酒用に消費されています。清酒がかすかに白濁を生じる白ボケは、タンパク混濁ともいい、生酒に溶けていた麹酵素タンパク質が、火入れによって熱変性を起こして不溶性になったものです。これは味に変化をもたらすものではありませんが、見栄えが悪いので取り除いてテリを良くするのが普通です。この取り除く作業に柿しぶが使われています。 柿しぶタンニンはタンパク質と良く結合する性質があり、清酒に柿しぶを加えると、タンパク混濁物質と結合して小さなフロックを生じます。しかしこのままではフロックが小さすぎて自然沈降するまでに至らないので、さらにゼラチンなどを加えて大きな凝集物にして沈殿させてやります。この作業をオリ下げといいます。 またオリ下げには、プロテアーゼという酵素をタンパク混濁物質に働かせて凝集させる方法もとられています。

■日本にもあった禁酒令
禁酒令と聞くと、すぐ思い浮かべるのがアメリカの暗黒時代ですが、日本にも昔禁酒令がありました。遠く飛鳥の時代から何度も出されていましたが、天平宝字二年(七五八)には「祭りや医療以外の飲酒は禁止。宴会を開くときには役人の許可を得ること」とお達しがでています。また、大同一年(八〇六)には凶作なために都の酒造家を封印しました。こうした禁酒令の中で、最も大きな規模だったのは鎌倉時代、建長四年(一二五二)にだされた沽酒禁制です。 鎌倉の民家にある酒壺の内、自家用に使う一個を残し、その他はすべて打ち壊されました。壊された壺は三万七千二百七十四個もあり、自家用以外の酒の醸造がいかに盛んであったかがわかります。これに対し「東鑑集要」が酒嫌いの幕府に当てた批判は、「酔いのもとは酒だが、酒はやがてはさめる。飲まない人が乱れれば一生さめるものではない。飲む人の狂は軽く、飲まない人の狂は重い。禁酒では世の中は良くならない」といったものでした。この批判は多くの酒飲みに賛同を得たようです。

■酒の寿命
食料品に製造年月日表示が義務づけられているのと同様に、日本酒にも表示されていますが、日本酒の寿命は三〜十カ月といったところです。日本酒が古くなると腐らないまでも様々な変化をきたし、香味がおちます。この変化の主たる原因はアミノカルボニル反応といって、アミノ酸と糖が反応し、メラノイジンが生じます。酒の色が濃くなったり、老香という嫌な香りが生じたら、メラノイジンが生じた証拠です。 実はこのメラノイジンとは、醤油にたくさん存在する成分で、基本的には醤油と日本酒は同じ色で、例えば、醤油を薄めると酒の色に近づき、逆に日本酒を二〜三年放っておくと、醤油のような色になります。中国の老酒はまさにこの色です。 ただしこの反応は、温度や成分などによって左右されるので、低温で保存すれば永持ちし、吟醸酒のように淡麗な酒はなかなか老ねにくい性質を持ち、二年くらい変質しないものもあります。しかしやはり、封を切ったら四〜五日で飲みきるくらいがいいでしょう。

■返杯
外国人の中には「日本にはすばらしい文化がたくさんあるが、どうも返杯の習慣にはなじめない」といわれる方がおられます。この不衛生なセレモニーも、もとは日本人の連帯意識から生まれたものです。 大昔、酒を酌み交わすことは、魂の交流を意味していました。ですから、自分の魂をお世話になった人に贈るために、酒を贈答品に使っていたわけです。原則として、人と酒を飲むときは、一つの酒の壺を飲むか、同じ杯を使って酌み交わしていたようです。この習慣は、一つの器のものを分け合うことによって、疑似血縁や親戚関係を築く意味がこめられていました。今でも結婚式の三三九度や、やくざの親分・子分の杯のやりとりに、この習慣が残っています。つまり、返杯とは単なる儀礼的なものではなく、魂の交流をはかる深い意味が込められているわけです。外国人にとっては、こんな連帯意識はとうてい理解できないことでしょう。外国人に返杯の無理強いはしないよう、酒好きのエチケットとして心がけて下さい。

■乾杯の始まり
酒席で交わされる乾杯の音頭ですが、実は大変まじめな人物がちょっとした誤解を生じたために生まれたものなのです。時は安政元年(一八五四)。日英和親条約の協定後、通称の約款を補足するため、英国の特派使節のエルギン伯が来日しました。一行は交渉のため井上信濃守など六人の幕府の条約委員を招き、会談を行いました。晩餐となり食事がすむと、エルギン伯は元首の健康を祝して杯を交わすというイギリスの習慣を行いたいと提案しました。 当時の日本人にとってこれははじめての体験でした。礼をそこねないよう、戸惑いながらもこれを理解しようと努めたのですが、会話がとぎれ、座が静まり返ったときに信濃守が突然立ち上がって、声高々に”乾杯”と叫んだのです。これにはイギリス側も大爆笑しました。日本初の乾杯は、かなり滑稽なスタートを切ったわけですが、今ではセレモニーの主役として定着しています。