ワイルド・ワイフ
----- 序 -----

高速道路に入って料金所で金を払う頃には雨が降り始めた。俺は運転には自信があったし、何しろクアトロに乗っているのだという安心感があったのだと思う。早く行かなければ、早く逃げなければという二つの意識が交錯する中で、右足はアクセルペダルを必要以上に踏んでいたに違いない。

雨足がにわかに速まり、ワイパーのスピードを最速にしても、視界を確保するのが困難になって来た。回りの車のスピードが落ちた。俺はそれを横目にアクセルを踏み込んだ。ちぎってやろうと思ったからだ。何しろフルタイム四駆なのだ。雨の中でも晴れの日と同じ挙動を示すのがこの車の売りなのだ。長い直線の間に俺は全ての並走していた車を抜き去った。バックミラーで見ると、雨にかすんで彼方に小さなヘッドライトの群れが追いかけて来るのが見えた。

そこまでだった。「前方急カーブ注意」の標識が視界に入ったのとカーブが始まったのは同時だった。急激に道は狭まり、三車線あった道が二車線に絞り込まれ、九〇度以上のカーブにつけられた防護壁が行く手を阻むかのように立ちふさがった。

「ヤバイな」

と思うのと後輪が滑り始めるのとは同時だった。右にテイルを振り、車は左の防護壁めがけて進んで行く。俺は右にハンドルを切る。通常ならばこれで車は右を向くのだが、そのまま進んで行く。俺は、四速から三速にシフトダウンした。遅すぎた。この操作はカーブに入る前にしなければならないのだ。

俺は、ハンドルを左に切った。今度は車は左にテイルを振った。ハンドル操作が急激すぎたのだ。俺はアクセルを吹かした。レスポンスが悪かった。三速ではギヤが小さすぎるのだ。二速で踏み込めば、それなりのレスポンスは期待出来たはずなのだが、全てが遅かった。俺はもう一度ハンドルを右に切った。車はテイルを右に振った。

左カーブを描きながら、道はまだ出口にさしかかってはいない。俺はもう一度ハンドルを左に切った。そのとき、突然タイヤが道路を噛んだ。左のフロントフェンダーがガードレールに接触した。その弾みで今度は左のリアがガードレールにぶつかった。次に起こったことは、多分それは物理の法則にかなっているのだろうが、俺の経験したことのない車の挙動だった。目の前の側壁が右に急激に流れ、一瞬フワッと車体が浮いてしまったような感触の中、一八〇度回転すると左のリアからガードレールに激突した。なぜ激突したと思ったかというと、その瞬間リアのガラスが粉々の礫になって俺の後頭部に突き刺さって来たからだ。

シートベルトは俺の首に食い込んでいる。タイヤが焼けた臭いが車内に充満し、ハンドルを握ったまま目を上げると、豪雨の中でも、俺の車が描いた軌跡が白い煙を上げながらアスファルトにへばりついているのが見えた。土砂降りの雨の滴が両手を濡らし、フロントガラスも砕け散ってボンネットの上でキラキラ輝いているのが見える。

車が止まったのはちょうどカーブの出口の辺りで、すぐ目の前にはカーブの曲がり角があり、それが右方向へと吸い込まれている。

「ヤバイな」

俺は、朦朧とした意識の中でそう思った。俺の車は二車線の走行車線のセンターラインを跨いで斜め右にフロントを向けて停車している。あのカーブを抜けて出てきた車、俺がついさっき追い抜いて来た車たちが、俺の車を視界に捉えてから俺の車までの距離は五〇メートルほどだ。時速六〇キロで抜けて来たとすれば、三秒足らず、時速四〇キロだとしても五秒足らずで俺の車に追突してくるはずだ。

さっき追い越してから何分経っているだろう。直線でちぎったといっても、距離にして二キロメートルもあるかどうか。二、三分もすればやって来るはずだ。

俺はキーを回した。エンジンはかからない。指先に力を込めてキーを回そうとするのだが、どうしてもかからない。ガラスの破片がどうやら指に食い込んでいるらしくてチカチカする。俺はハンドルで体を支え、前方を注視しながらキー戻しては回し続けた。

そのとき、前方のカーブの薄暗がりの中から、走って来る物が目に飛び込んで来た。それは、全裸の女だった。口から血を流し、髪を振り乱し、左足を引きずりながら、女が裸足で走ってこっちに向かって来る・・・。それは、ついさっき車に乗るために振り切って来た俺の妻だった。