突然非常ベルが鳴り渡った。
俺は飛び起き、ドアに向かった。ドアを開けると、妻が立っていた。
落ち窪んだ眼窩には隈を作り、異様にやせ細っている。首から下げたシャネルのブローチの端が欠けている。スプリンクラーから水が出始めた。廊下には煙が充満し、玄関に置いてあった洋服が燃え上がっている。
妻がまた火をつけたのだ。俺は妻を押し退け風呂場に駆け込むと洗面器に水を汲んで洋服にかけ、足で踏みつけて火を消した。天井に黒い煤がついただけで大したことはない。俺は玄関のドアを開けて外に出ると、非常ベルのストップボタンを押した。 ウールの燃えた嫌な臭いが残ったが、静寂が戻って来た。
気がつくと妻がいない。ダイニングルームにもいない。寝室に入って行くと、ベッドの上で柳刃を手首に当てて、こっちを睨んでいる。
「来ないで!来たら切って死ぬから!」
「どういうことなんだ、一体!」
「さっき、貴方の彼女、刺して来たわ」
「何!」
「あの人、今、病院よ」
「なぜそんなことをしたんだ!」
「貴方のせいよ、全部。どうして私に考える時間をくれなかったの」
「あげたじゃないか。一ヵ月も考える時間があったんじゃないのか」
「最初の一週間だけ。後は貴方のことばかり。相談しようと思って電話してもいつも留守だし。事務所の近くのバーに電話したら、貴方が割烹の女と来てたって」
「あいつか」
「それからは打ち合わせも上の空。予定組んでたから行くことは行ったけど、何も具体化はしてないわ」
「君、またクスリやってるだろ」
「お酒じゃ酔えないもの」
俺はゆっくりと妻に近づき、柳刃を取り上げるとベッドの下に放り込んだ。そして、ベッドに腰かけた妻を立たせると背中に手を回して抱き寄せた。あばらが浮いているのが洋服の上から触っただけでも分かる。妻は俺の肩に顎を乗せながら耳元で囁いた。
「抱いてよ。久し振りなんだから」
俺は、乱暴に妻の洋服を脱がせると、ベッドの上に寝かせた。飛び出した鎖骨の下に貧しい乳房が張りついている。腰骨が湾曲した線を浮き立たせ、恥骨の下に性器が突き出している。
「優しくしてよ。あの人にしたみたいに」
俺は妻に覆いかぶさると、唇を舐め、乳首を舐めた。妻の口は酸っぱい味がした。性器からもすえた匂いがしていた。俺は、妻の両脚の間に座り固く熱くなったものを握って妻の入口を上下し、ゆっくりと沈めて行った。誰か全く知らない他の女の中に入って行くような気がした。
俺はなぜかいく気にならなかった。このまま止めてしまいたいと思った。それを妻は敏感に感じ取ったのだろう。自分の中に出入りするものを右手で握り、
「これがあの人の中にも入ったのね」
と言った。俺は黙ったまま行為を続けていた。
「もういいわ!」
妻はそう言って俺の体から離れると、ベッドの下に手をやろうとする。俺は慌てて妻の手を押さえ、体ごと突き飛ばした。妻は不格好に性器を見せながらひっくり返った。
「貴方のそれ、ちょん切ってやるから!」
妻は起き上がってダイニングルームの方に走った。俺も後を追った。妻の手がキッチンの下についている戸の裏側から出刃包丁をつかみ出した。
「あんな女、どこがいいのよ!そのおちんちんが悪いのよ!ちょん切ってやる!」
「やめろ、おい、危ないだろ!」
妻は両手で出刃包丁を握り、刃を上にして突いて来る。俺は咄嗟に居間のドアを開け、中に逃げ込んだ。妻はそのまま突っ込んで来る。俺は身をかわしたが、足がもつれてソファの上に倒れ込んだ。
妻のハァハァという荒い息づかいが、電気の点いていない部屋の中で大きく聞こえる。妻が向き直って、俺の上に突っ込んで来る気配がした。両手で体を支え起き上がろうとしたとき、何かが俺の手に触れた。
俺はそれを引き寄せると、ガット面を水平にして振った。それはシュッと音をたてて空気を切ると、ゴクッという手応えで妻を受け止めた。妻の動きが止まった。
俺は部屋の電気を点けた。妻がソファの下に口を押さえてうずくまっている。出刃包丁が足元に転がっている。俺は、それをキッチンに持って行き、元のところにしまうと部屋に戻った。妻はまだうずくまったままだ。
「大丈夫か?」
妻は黙ってうなずく。口に当てた両手の指の間から血が漏れている。
「見せてみろ」
両手をゆっくりと開くと、白いものが二、三個こぼれ落ちた。唇が切れてぱっくりと傷口が開いている。俺は、タオルを持って来て妻に渡した。口の中に溜まっていた血で、タオルはすぐに真っ赤に染まった。
「すまん、君があんなことをするから」
「痛いわ。お医者さん、連れて行って」
「分かった。服、着ろよ」
俺は手早く洋服を身につけると、バッグを持って先にエレベーターに乗り、車庫へと向かった。夜明け前のひんやりとした空気の中、車の窓を開け、マンションの前で妻が出て来るのを待った。妻はタオルを口に当て、うつむきかげんでゆっくりとマンションから出て来ると、助手席に乗り込んだ。俺は車をスタートさせた。
「この車にもあの女を乗せたのね」
妻の方を向くと、また、出刃包丁をこっちに向けている。俺は急ブレーキを踏んで車を止め、その揺れで前のめりになった妻から包丁を奪うと首を絞めた。
「殺してよ。私なんかいない方がいいでしょ」
俺は、一瞬手の力を抜いた。その瞬間、妻が両手でつかみかかって来た。俺は妻を突き飛ばし、ドアを開けて外に出ると、助手席のドアを開けて妻を引きずり出した。妻は、左脚を車内に残したまま道路に倒れ込んだ。
俺は、その脚目がけて力任せにドアを閉めた。
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