ワイルド・ワイフ
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一週間が経った。俺は、その日、ほとんど明け方に家に戻った。 車を車庫に入れるのが面倒なくらい俺は酔っていた。
どうせ昼前には事務所に行かなければならないという事情もあって、俺は車をマンションの前に駐車したままにしておいた。
昼前、車に乗り込もうとして、ドアに引っ掻き傷があるのに気づいた。良く見ると、それはドアだけではなく、フロントのブリスターフェンダーにもリアにもついていた。反対側に回ってみるとそちらにも同じような傷がある。
しかも、三周もしている。

俺は、心臓の鼓動が速くなり、こめかみの辺りの血管が脈打っているのを感じた。ご丁寧ないたずらをする奴もいたものだ。あの時間から昼前までの間といえば六時間前後。明るいときにはやらないだろうから、夜が明ける前までということになると、二時間あるかないか。しかも、その時間にこの辺りを通る人間といえば、新聞配達、牛乳屋、犬の散歩くらいなものだ。犯人を特定することは難しくないはずだ。

俺は事務所に出る前に、所轄の警察に被害届を出しに行った。俺が、犯人を特定してくれるよう頼んでいるのに、その担当は、俺の車を何周もして傷の状態を克明に調書に記入しながら、

「これ、いたずらじゃないですよ。恨みですよ」

と言った。だが、俺には、まったく思い当たる節がなかった。

その夜、俺はいつものように夜中の二時すぎに家に着いた。車を車庫に入れ、エレベーターで五階まで上がり、ドアを開けて家に入った。
その途端、いやな臭いが鼻をついた。ドアの前に洋服が積み上げてあり、くすぶってまだ煙を上げている。廊下を通り、ダイニングルームのドアを開け、明かりを点けるために左側の壁に手を延ばした。
そのとき、いきなり俺は足元の床が消え去ったような錯覚にとらわれた。俺は咄嗟に右手を出し、体を支えようとした。そこにはサザビーの丸テーブルがあったのだが、右手はその縁をかすっただけだった。
次に来たものは、後頭部を丸テーブルの縁でしたたか打った感触だった。丸テーブルはそのはずみで俺の方に倒れかかって来て、体を支えようとしていた右手の上にしたたかな痛みを残した。

俺は、テーブルを押しやって右手を抜き取ると、前屈みになって両手で体を支え、起き上がろうとした。
床がズルッと滑る感触が両足に伝わって来た。
酸っぱい臭いが鼻をついた。俺は、滑る床に注意しながら何とか起き上がると壁のスイッチを入れた。
床中が真っ赤に染まっていた。酸っぱい臭いは部屋中に満ち、俺の口の両側の唾液腺からは大量の唾液がにじみ出て来た。俺は、手についていた赤い液体を鼻先まで持って行った。
それは、トマトケチャップだった。おまけに大量の油とソースまでぶちまけてある。
壁を見ると、トマトケチャップで、FUCK YOU!となぐり書きがしてあった。そのかすれ具合が血糊を連想させて、俺はもう少しでもどすところだった。

俺は滑らないように足元に注意しながら窓際までたどり着き、窓を大きく開け放った。反対側のベランダに通じるガラス戸も開け放った。部屋に空気を通そうと思ったのだ。そのとき電話が鳴った。

「お帰りなさい。大丈夫?」

「ああ、君か。大変なんだ今」

「床のお掃除で?」

「何、君なのかやったのは!」

「アハハハハハハハハ、何言ってんのよ!にぶいわねぇ!」

「車をやったのも君か!」

「車?何のことそれ。洋服は全部私が買ったんだから、処分しました!」

「事務所の金、どうしたんだ!」

「白い車のお返しよ。半分は私のものでしょ。私、役員なんだから」

「何に遣ったんだ!社員の給料だぞ、あれは」

「貴方が女に遣うからでしょ」

「いつ帰ったんだ!」

「二週間前から戻ってるわよ。ずいぶんご執心なのね、飯屋の女に」

「何のことだ」

「知らないと思ってるの?今日も女のマンションから戻ったんでしょ、どうせ」

「仕事だ。スタジオから戻ったところだ」

「嘘。私、毎晩マンションの前で待ってたのよ。貴方はいつも同じ時間に帰ってくるの知ってるんだから。女の店が終わって一緒にマンションに行って、寝かしつけて帰って来るんでしょ」

「仕事だって言ってるだろ」

「私、もうそこには戻りませんから。じゃ」

電話は切れてしまった。どこから電話して来たのだろう。俺は、窓から外の電話ボックスを窺った。人影はなかった。

俺は床の掃除に取りかかった。酸っぱい臭いにむせながら、まずモップで拭い、雑巾で拭い、新聞紙で拭い、それでも足りないので、Tシャツを取り出して拭った。
次に表面のヌルヌルを取るために液体洗剤を床全体に振りかけ、シンクで洗った雑巾とTシャツで何度も拭いた。
臭いは薄らぎ、ヌルヌルもやっと取れて来た。時計を見ると、朝四時に近かった。二時間近くも俺は床掃除をしていたことになる。
俺は、翌日のスケジュールを思い出した。一週間のロケ撮影の予定が入っていた。朝、八時に集合をかけてあった。

俺は、バッグを取り出し簡単に荷造りを済ませた。そして、シャワーを浴び、少しでも寝ておかなければと、寝室に入りベッドにもぐり込んだ。そのとき、ひやりとした物が首に触れた。半身になってスタンドライトを点けて見ると、それは刺し身用の柳刃だった。枕の下に刃を上にして置いてあった。
本気だな、と俺は思った。そう言えば、女が

「店に最近無言電話が頻繁にかかって来る」

と言っていたことを思い出した。