それでも奇特な人はいるもので、移転後も数人の客がついてきてくれたのだが、その中でも仁美ちゃんが一緒に来てくれたことは心強かった。
「音楽の勉強も面白いけれど、ワインも面白〜いんだもん」
という仁美ちゃんの一言が田中の沈みがちになる気持ちをどれだけ励ましてくれたか分からなかった。
カウンターに座り、ガラスの格子戸越しに外を眺め、ボトルに水を入れてはワイングラスに注ぐ練習をする仁美ちゃんを見ていると、「何のためにこんなことをしているのだろう」という疑問がふと脳裏をよぎり、その度に「もう少しやってみよう」という気持ちにそれを置き換えている自分を発見するのだった。
「この店がなくなったら、わたしたちどこへ行けばいいんでしょう?」
確か、そんなことを言った客がいた筈だ。
「どこまでも追いかけていきます」
そんなことを言った客もいた筈だ。
「手が足りなかったらいつでも飛んでいきます」
そう言ってくれた客もいた筈だ。
しかし、それが口だけのことだったということが分かるのに殆ど時間を必要としないというのは何とも寂しい限りで、店と客とはまさしく一期一会と心得るべきであると、再確認するしかなかった。
店名を「夢屋」としたのに合わせ、自らを「夢のソムリエ」と名乗ることにした田中だったが、店の存在も、仁美ちゃんも田中自身もシンと静まり返った夕陽丘の街の中で忘れ去られた夢のような存在でしかなかった。
「えらいとこに来てしもうたんかも知れんなー」
「でも、以前はとても有名な店だったんでしょ」
「麻子は特別なんや。こんな辺鄙なところでも大勢のお客さん来てくれてたんやから。そやけど、もうそれも三年前の話や」
「最初はそんなもんじゃないのかしら。宣伝しなくちゃ駄目でしょ」
「宣伝て、ここらお寺ばっかりで宣伝にならんと思うけどなー」
「そんなことありませんよ。わたし、チラシ作って配ってみたらいいと思うけど」
かくして仁美ちゃんは手作りのチラシを作っては冬空に自転車に乗ってチラシ配りに出掛けていくのだった。
無駄に思える作業も地道な積み重ねから実を結ぶこともあるようで、しばらくすると、仁美ちゃんのチラシを持った客がポツポツ訪れるようになったのだった。
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