ダイニングルームに戻ると、部屋の壁中にイカ墨スパゲティがぶちまけてあり、壁を伝った墨の跡がポップアートのような模様を残していた。妻は、と見るとテーブルの上に顔を埋めさめざめと泣いている。俺はため息をつき、残ったワインを自分のグラスに注ぎ、口に持って行った。
「私にも頂戴」
イカ墨の臭いとオリーブオイルの臭いが立ち込めるダイニングルームで静かにワインを飲みながら、荒涼とした風景画の中の二人になって見つめ合った。
「疲れてるんだ、君は」
「ごめんなさい」
「どうしたんだ一体」
「今日、仕事先でスタイリストなんかやめろって言われたの」
「コーディネイトが気に入らなかったのか」
「私、メンズは無理だって」
「確かにな。そうかも知れん」
妻はワイングラスの脚を持ったまま底をテーブルにぶつけた。ワイングラスは脚の部分からグシャッと潰れるように崩れ落ち、中に入っていたワインがこぼれた。
「何ですって?貴方までそう言うの」
「だって、メンズはいつだってオーセンティックだしトラッドなんだ。そういうのって興味ないだろ」
「分かってるわよ、そんなこと貴方に言われなくても!」
「おい、落ちつけよ。俺が言ってるんじゃないだろ」
「そう思ってるのね、貴方も。私、スタイリストはもう無理だって!」
「何もそんなことは言ってないだろ。でも、若くって安い子とじゃ勝負にならないような仕事なら、やめてもいいんじゃないか」
「私は、おばさんな訳?」
「いや、スタイリストってのは若くてギャラの安い子に仕事が行くって言ってるんだ。君がファッションスタイリストだって言うんなら、その分野で生きるべきだろう。何もテレビタレントのスタイリングなんかすることはないんだし」
「私にスタイリスト、やめろって貴方も言うのね」
「いや、そうは言ってない。本当に君がやりたいことをやればいいって言ってるんだ」
「偉そうなこと言うのね、ちょっと売れてると思っていい気にならないでよ!私がこの仕事してるからこんなもの食べられてるのよ。貴方の着てるその服だって、皆私が買ったんじゃない!子供の教育だって、ベビーシッター代だって皆皆私が払って来たのよ!貴方は魚釣りばっかり!好きなことにばっかりお金を遣って。私は家族の犠牲よ!この十年間、私は家族のために働いて来たのよ。私の人生を返してよ!」
俺は、新しいワインを一本と割れてしまった妻のグラスの換えを取りに立ち上がった。
ワインを飲みながら妻とは朝まで話したが、進展はなかったし解決の糸口もなかった。俺の問題ではなく、彼女の個人的な問題なのだ。俺たちの問題ではあるが、俺だけの問題ではなかった。白み始めた窓越しの朝の光の中で妻が言った。
「私、スタイリストやめる。明日から食べさせてね」
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