ワイルド・ワイフ
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妻が旅行に出てから一週間は天国だった。
だが、二週間目からは困ったことが起きた。満足出来るレストランがないことに気づいたのだ。フランス料理にしてもイタリア料理にしてもドイツ料理にしても、味は言うに及ばずワインの品揃え、テーブルセッティング、サービスに至るまで家で食っていた方がましだと思えてきたのだ。
そして、気がついた。妻は料理に完璧を求めていたのだと。
そして、もう一つ。和食は一度も食ったことがなかったと。俺は、割烹通いを始めた。だが、玉石混淆の世界に足を踏み入れた感は否めなかった。味と値段のバランスがこれほどバラバラな世界もなかった。高ければ旨いはずとの思い込みはいつもはぐらかされた。友人たちの紹介もあてにならなかった。十軒行ってみて一軒ましな店に当たるというくらいだった。それでも、和食に飢えていたのだろう。俺は懲りずにうろうろと店探しに精を出していた。

そんなある日、俺は訪ねて来た友人を連れて事務所と目と鼻の先にある飯屋に入った。確か、トンカツ定食を二人で食ったと思う。長い間同じ場所で事務所をやっていたのに、俺は一度もその店で昼飯を食ったことがなかったのだ。その店は女ばかりの四人でやっていた。俺はそのとき、ビールを注文したのだが、カウンターの中に入っている女が、

「ビールはお昼には出さないの。ビールが飲みたかったら夜来てね」

と言った。俺は、夜もやっている店には見えなかったので、

「ここ、夜もやってるの?」

と聞き返した。どうもこれがカチンと来たらしくて、その女は

「この店は割烹料理の店なのよ」

と言った。俺はそんなことはまったく知らなかったので、

「いつからやってるんですか?」

と聞いた。女はムッとなって、

「もう、今年で二十年になります」

と言った。俺が事務所を開いてから十年だから、その十年前からあったということになる。俺はまた、

「何代目ですか?」と聞いた。

女は「最初から私がやってました」と言った。

俺はそのとき、初めて女の顔をちゃんと見たのだが、「割烹・二十年」とその女の顔とはまったくバランスが取れていないことに気づいた。あまりにもバタ臭い顔で、しかも三十五、六にしか見えなかったからだ。

俺は、その店に通い始めた。昼飯を食って夕方にはまた、昼に座っていた席に座っていた。何しろこんなに近くに納得の出来る店があったのだから、俺はうれしかった。俺が通い出して二週間目に、二十周年記念日がやって来た。俺は軽い気持ちで花束を贈った。確かカサブランカだったと思う。翌日から女の態度が急に変わった。俺の昼飯のおかずが一品多くなったのだ。

三週間目になり、俺は馴染みの客にも溶け込んで行き、女からも話しかけてくるようになった。

「お一人なの?」

「うん、今は一人だ。子供は実家だし」

「お仕事は何なさってるの?」

「広告屋だよ」

「お近くなの?」

「近くもいいとこだよ。もっとも俺んとこは十年にしかならないけど」

そんな程度のことだったと思う。俺たちが話したのは。
俺は勘定を済ませると、いつものすぐ近くのバーに寄った。そのバーは以前から知っていたのだが、女の店に通うようになってからは必ず次に寄る店になっていた。日本酒の後の口直しにジンリッキーをいつも飲むことにしていたからだ。

予定通りだとすると、そろそろ妻が帰ってくる頃だった。俺は、その夜が最後のバチュラーライフの夜になるのではないかと思っていた。
バーは空いていたが、俺の知り合いはいなかった。俺はいつものようにジンリッキーを注文して飲んでいた。その店にしたら不思議なくらい静かな夜で、最後の夜にふさわしいなと思うと、ついグラスを重ねてしまった。マスターは元デザイナーをしていたこともあって、広告の話をしていたと思う。多分車の話とかもしていたと思う。そのときだった。カウンター越しに話し込んでいる俺の隣に女が腰を下ろしたのは。

「隣、空いてますか?」

「どうぞ」

俺は、隣も見ずにそう言った。カウンターには、俺しか座っていなかったからだ。

「こちらと同じものを」

女がそう言った。

「お久し振りですね、ママ」

マスターがそう言った。俺は隣を見た。

「待ち合わせですか」

マスターが言った。

「いいえ」

「いや」

俺と女とは同時にそう言っていた。女は割烹の女だった。ワンピースに着替えて、メイクをし直している。店にいるときは着物に割烹着だったので、一瞬分からなかったのだが、そのバタ臭い顔には見覚えがあった。

女は一杯だけ飲むと帰って行った。時計を見ると夜中に近かった。店を終わって片づけてから来たのだから、そんな時間になっていてもおかしくはないと思った。俺は女が帰って行ったのをきっかけに立ち上がり、勘定をした。勘定を終えて店を出ようとしたとき、電話が鳴った。マスターが俺の方を向いて受話器を軽く持ち上げて合図した。俺に電話だという。心当たりはなかった。

「お一人なんでしょ、よろしかったら私のところで飲みませんか」

電話の声はそう言った。さっきまで隣にいた女からだった。