ブザーの音で目覚めると、沢田は手慣れた手つきで裸の体に洋服を着け始めた。午後五時からのプラクティスを始めるためだ。ちょうど十五分後には岩井が隣の部屋からドアを開けて入ってきた。
二人ともしっかりと深い眠りを貪った後のスッキリした顔で階下に下りて行った。
階下のテーブルの上には、アイソタケが皿に盛られて置いてある。プラクティスの前に元気をつけておくようにというマダムの配慮なのだろう。
二人はテーブルに着いて、ちょうど五分で食べ終わるとウェーダーを着けて出ていった。マダムは見送らなかった。
夕食は八時からだから、三時間のプラクティスということになる。
漁協までは車で五分ほどの距離なので、二人は歩いて行くことにした。漁協の直ぐ前には川に下りるための石段がついている。フェンスを乗り越えなくてもいいように、組合長が鍵を開けておいてくれるということだった。
しかも、二人のために、夕方の給餌の時間を遅らせてくれるという大サービスまでしてくれるという。
「どうかな、夕マズメは」
「ああ、この天気ならまずまずじゃねぇか。二匹ずつってところかな」
「そうだな。でかいのが掛かるといいけどな。毛針、もう一本渡しとこう」
「ああ、すまんな。マテリアルとバイス持ってくるんだったな」
「もう取られることもないだろ。10ポンドテストにしてあるんだろ、ティペット」
「ああ、お前と同じ10ポンドにした」
漁協の前までは二十分ほどの歩きで着いた。
左手の石段を下りて川岸に立ったときには午後四時五十五分。ラインをセットし、毛針を結び最初のキャストを開始したのがちょうど午後五時だ。
直ぐに大岩の脇から釣り始める。
水面には魚がフィーディングのためにつくるリングは見当たらなかった。まだ夕食の時間には少し早い。
チャンスは午後六時から夕闇に包まれる午後七時までの一時間。五時からはそれまでの肩慣らしのキャストだ。
渓相はもう頭に入っている。ダム下までのポイントは五か所。今、岩井の立っている大岩の向こうと少し上流のい淵。沢田の側は、今、沢田が立っている大岩の手前と上流のチャラ瀬の上。そして、ダム下の流れ出しの五か所だ。
ダム下には大きな円くて深いプールが青々とした水をたたえている。魚はこのプールに溜まっている。
殆ど流れもなく、ちょうどそれは川の中にできた貯水池のように見える。そして、給餌の時間になると、五か所のポイントに散っていく。
それぞれ、縄張りというか、序列に従った定位置があるらしいのだ。
当然、大物は楽に餌の捕れるポイントに集まっている。
最初に餌の捕れる、競争相手の少ないポイントである、最上流のダム下の流れ出しの中だ。
給餌の始まる時間はいつも午後五時半。最上流にいる大物はその時間までプールの中から出てこない。だが、下流に定位置を持つ魚はその時間に合わせて移動し始める頃だ。魚の中の体内時計は下流に向けての移動を指示しているはずだ。
沢田と岩井の二人は魚が下ってくるまでの間、三十ヤードのロングラインをコントロールしたり、美しいループをラインが描くようにロッドとラインをコントロールしたり、ラインをロールさせて別のポイントへ毛針を打ち込むトレーニングをしたりしてやり過ごした。
魚が動き始めた。生臭い匂いとミルキーな匂いが大岩の辺りに漂い始める。
「この匂い、何とかならねぇのかなぁ。子供のおもちゃみたいな匂いだなぁ」
「俺はあんまり気にならないな。平和な匂いだと思うぜ」
「まあな。危険な匂いじゃねぇよな。でもよ、何ちゅうか、釣り師にゃ似合わねぇだろ」
「で、どうする。遊ぶか」
「お前、ジャコ釣りはやめたんだろ」
「じゃ、上行くか」
「いや、俺はここでまず一匹掛ける。とりあえずボーズを解消してからだ」
「ボーズはないだろ。今日は奴ら、餌抜きなんだから。じゃ、俺は上にいくぜ」
沢田は岩井を置いて上流に向かう。一番手前の大岩のポイントは、沢田のサイドよりも岩井のサイドの方がいいポイントだというのが理由の一番目、未だマヅメには早いというのが理由の二番目だった。
夕マヅメの一時間に勝負を絞る、というのが沢田のスタイルだった。沢田は岩井を置いて川岸の方に向かって歩き、土手を上流に向かった。
歩き始めて振り向くと、岩井のロッドがもうベンディングカーブを描いていた。手を上げて合図する岩井に手を上げて応え、
「貧乏性め」
と呟くと、沢田は歩き始めた。十分程の歩きで淵に着いた。
ここは岩井のポイントだ。淵の様子を窺いながら沢田は歩き続け、二十分もするとチャラ瀬が見えてきた。
チャラ瀬の上がポイントだ。
|