麻子からそれを打ち明けられたとき、田中には迷いはなかった。あと何年になるか分からない中国暮らしをとるのか、日本に戻って新たな暮らしを始めるのかという二つの選択肢に対して、迷うことなく田中は 日本に帰ることを選んだ。
それは、これから生まれてくる麻子と田中の子供のことを優先して考えた結論であった。麻子もこの田中の意見には賛同してくれた。しかし、この選択は、田中のサラリーマンとしての出世の道が閉ざされることをも意味していた。
田中と麻子の選択した、日本に帰るという結論は同時に会社を辞めるか、続けるかという、新たな二つの選択肢をも田中につきつけてくることになったからである。
田中は、これに関してもはっきりと辞めることで心の整理がついていた。ただ、香港支社にいる、大林たち部下の行く末に多少の不安が残っていることだ けが気がかりなだけだった。
そんなある日、田中の逡巡を見透かしたかのように、 安川専務からのE-メイルが届いた。
>田中支社長
>前略、先の異動に関しては、社長、ムッシューロ
>ートシルト、全役員の合意によって決定しました。
>従いまして、貴殿にはこれを拒否することは出来
>ません。ただし、麻子さんの体調を鑑み、わたし
>の一存で、期間を限定してこれを延期することを
>申請する機会を与えたいと思います。
>なお、この期間につきましては、本社業務に携わ
>ることは出来ませんので、当社の新事業として開
>始することになったパイロットショップの運営を担
>当することを要請いたします。
>なお、これに同意しない場合には、退職届を提出
>していただくことになることを了承ください。
>以上。
>本社安川
簡潔な中にも、安川専務の愛情が溢れるE-メイルであった。
文面からすると、麻子の妊娠に最大の配慮がなされていることは疑いの余地がなかった。田中はこのE-メイルをプリントし、麻子に見せた。麻子は数度このE-メイルを読み返し、田中の顔を覗き込んだ。
田中は麻子の顔を覗き返し、その目の中に安堵の 表情をみてとると、
「そうしょうか?」
「ええんか、一郎ちゃん?」
「うん、そら麻子のことが一番大事やさかいな。生むのんはやっぱ日本の方がええやろうし、それに僕も里心が付いたんかもしれんな」
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