備長炭の歴史
悠久の歴史が育み磨いた良質堅、
それが備長炭。


木炭の発見は人類の燃料革命であった。
愛媛県の「鹿ノ川洞窟」といわれる史跡から、人骨や石器と一緒に少量の木炭が発見されています。およそ30万年前といわれているこの炭が、良く知られた日本最古の木炭です。樹木をそのまま燃やし燃料にするのでなく、一度蒸し焼きにして木炭を作る。これで、煙や炎をださず、火力が持続し、しかも保存のきく燃料ができる。木炭の発明は、人類の一大燃料革命だったのです。

日本に炭焼き技術を伝えた弘法大師空海。
木炭の文化は世界各地にあります。現在世界のトップレベルにある日本の炭焼き技術も、元々は中国から伝わったものです。では、いつだれが、これを持ち帰ったのでしょう。その功労者の一人とされているのが、弘法大師空海(774年〜845年)です。空海は804年に遣唐使と共に中国にわたり長く滞在しました。その後、当時は最先端だった炭焼きの技術を持ち帰り、仏教の布教と同時に日本各地にこの技術を伝えた、とされています。

製炭技術の規範として最高品質を
誇った熊野炭。

高野山にも近く、弘法大師が広めた
といわれている紀州の炭。当時、南
部川村のある紀南地方は熊野と称さ
れており、そこで製造される炭も熊
野炭と呼ばれていました。この炭は
最高品質の堅炭として、当時から珍
重され、その製造法は、わが国の製
炭技術の規範として各地に伝えられ
たほどです。江戸時代には紀州藩に
より、製炭奨励策が採用されていた
ことが徳川史にも残されています。
その後、多く製炭技術の研究などを
重ね、良質で世界に類のない、とい
われる硬質炭の製造技術を完成し、
現在に至っています。

江戸の町でももてはやされたトップブランド「備長炭」。
「備長炭」の呼称は、元禄年代(西暦1700年代)から使われるようになりました。当時、紀州藩の炭問屋、備長屋長左衛門がその名付け親とされています。江戸日本橋青物町の問屋にも送られ、これが大好評を博し、その名が江戸一円に広まり一躍有名になり、引っ張りだこの人気商品になったといわれています。原木の輸送手段のない昔、炭焼き人達は、山のウバメガシが少なくなってくると、また別の山へ移り、古い窯を修復して炭を焼いていました。炭焼き人は、何個もの窯をもち、ウバメガシの再生に合わせて山から山へ移動していたのです。山を熟知し、大自然を読む優れた炭焼き技術はその後、瀬戸内海をわたって、土佐(高知県)日向(宮崎県)にも伝わり、それぞれ土佐備長炭、日向備長炭となったのです。


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