炭焼きさん紹介
伝統の技をいまに伝える炭焼きの達人をご紹介します。

燃える炎は、炭焼き名人の心意気。
「朝は朝星、夜は夜星。昔から一度窯に火をつけたら、
親の死に目にも会えぬと言われている。火の色、匂い、すべてが勘だ。
どんなに疲れていても、神経だけは起きてんといかん。」
と、詩にも詠まれた炭焼きの仕事。
炎に向かう名人たちの両眼は鋭く光り、そして最高の備長炭ができあがります。

勝股文夫
昭和6年12月1日生まれ
●昭和24年より父親の後を継ぎ、和歌山県勝浦町で製炭業を始める。昭和28年より現在迄、この南部川村清川地域で焼き続けています。長く南部川村生産者組合約40名の会長を務め、日本一の備長炭の村をまとめ上げてきました。
平山幸男
昭和4年6月6日生まれ
●昭和19年中国大陸で黒炭を焼き始める。終戦後の昭和21年帰国。その後は父親に習い備長炭を焼き始め現在に至る。備長炭を焼く技術は大変奥が深く、1回1回の窯出しは正に真剣勝負。南部川村における備長炭の伝統が続く限り、品質にかけてはどこにも負けない自信があります。
岩澤建一
昭和46年6月11日生まれ
●神奈川県茅ヶ崎市出身。自分が本当にやりたい仕事を探しに全国を自転車で旅する中、備長炭を焼くときに出る煙の香りに誘われ、南部川村を訪れる。そこで出会ったものは、まさしく自分が求めていたものだった。平成6年3月、師匠東山正男氏の元へ入門。師匠の精一杯のご支援のもと、極限の厳しい試練を乗りこえ、1年後の平成7年3月に独立。予想以上の厳しい仕事で、最初身体が慣れるまでは夜も身体が痛くて眠れないことも。でも、そこに生きている実感を感じている。
東山正男
昭和13年2月18日生まれ
●中学卒業後16歳で炭焼きに弟子入りし、26歳まで製炭業を続けるが、そのころから燃料が木炭から電気、ガスへの転換期には入り経営が困難となり運送業に転職。しかし炭焼きが忘れられずに昭和59年より再び創業、以後現在に至る。この間備長炭の需要は高まる一方。これに対応出来る量産型備長炭生炭方法を導入、村内での個人別生産量第一位の座につく。そしてまた後継者育成においても積極的に取り組み、県外から訪れる炭焼き志願者も暖かく迎え入れる。現在まで3名の後継者を立派に育て上げてきたが、このページで紹介している岩澤建一君もその一人。炭焼きの仕事は危険と隣り合わせ。私は平成4年、原木運搬中不慮の事故で今までのような仕事が出来なくなってしまった。しかし持ち前の精神力とたよりになる妻や若者らに支えられながら、炭焼きを再開することが出来るようになりました。最近では備長炭もいろいろな用途に使われるようになり明るい話題も多く、将来にも期待がもてるようになり毎日意欲的に仕事を続けています。また今後もお客さんに気に入っていただける良質の備長炭を作り続けていくようがんばります。
竹田定彦
大正14年2月20日生まれ
●18歳から父親につき炭焼きを始める。最近の炭窯は自動車の通える便利な場所に建てられているが、私は細い山道の通う奥深い場所に窯を持っている。原木を求めながら窯を移動する、といった昔ながらの方法を今も続けている。この方法をとっているのは、この村では私が最後の人間かもしれない。もちろん電気もこんなとこまではこないが、不便さを感じたことがない。なぜなら自然の中で仕事をするのが楽しいから。だからこの歳でも病気知らず、これからも元気で頑張ります。
山川政春
大正7年3月10日生まれ
●17歳から炭焼き業を始める。他にも梅の栽培も行っており、兼業で頑張っています。この村では最高齢者の備長炭生炭者らしいが、まだ向こう10年間は現役で頑張るつもりです。今でも山へ登り原木伐採もやっていますよ。今まで炭焼きを続けてきた結果、どんな窯でも状態をひと目で見極められるようになりました。いわば直感力が正しく働くようになったのでょう。やはりそうなるまでは最低50〜60年はかかりますよ。最近若い後継者も少しずつ育っていますが、私も元気な内に彼らに伝統技術を伝授していってあげたいと思っています。
平進彦
昭和7年9月10日生まれ
●中学卒業後の16歳より両親につき炭焼きを始める。炭焼きは大変奥が深く、立派な備長炭を焼き上げるまでには長い経験がいります。また焼く窯によってそれぞれ特徴(クセ)があり、どんな窯でも同じ方法でコントロール出来るものではありません。まさに窯は生き物であるかのようにも思えます。皆さん、私たちの苦労を少しでも理解していただき、備長炭の価値を認識してくれればうれしく思います。
原幸夫
昭和13年7月27日生まれ
●地元中学卒業後、父親につき備長炭炭焼き業を始める。この村では梅生産と兼業している木炭生産者が多いが、私は数少ない木炭専業生産者です。現場も私の暮らす南部川村清川地内から離れたことがありません。私は炭を焼くのが好きと同時に、清川というところが大好きなのです。豊かな大自然に囲まれ、また人情味のある人々と暮らすことがなによりの幸せです。窯は生き物、いったん火(命)を入れるともう止めることが出来ません。昔から「炭焼きを始めると親の死に目にも会えない」などと噂されたほどです。肉体的には大変疲れる仕事ですが、精神的疲れ(ストレス)は全くありません。だからご飯もおいしいし、夜もよく眠れる。満足いく人生を送っています。また今では長男正昭が後継ぎとして頑張ってくれてます。これからも家族で力を合わせ頑張っていきます。
原正昭
昭和45年11月20日生まれ
●21歳から父親につき炭焼き業を始める。それまでは都会に出て営業の仕事をしていたが、それが自分の目指す仕事ではないとあきらめ帰郷。都会から見た田舎のすばらしさに気づき、父親の仕事を継ぐことを決心。以後現在に至る。「やっぱり炭焼きはええなあ。」都会での仕事は毎日が同じ事の繰り返し、単調すぎて刺激がない。また仕事が慣れてくるとうまく手を抜くことばかり考えてしまう。それに比べて炭焼きは刺激的。一見単調に思われる仕事だが、この道にはいると毎日が勉強。マニュアル通りすれば毎回成功、とは限らない。むしろその逆でその時の調子は毎回異なる。全く使う人間を逆笑うかのように。でもこんなに手こずる仕事だからこそ集中できておもしろいのである。この村には私のような地元出身の後継者は少ないのですが、最近県外から炭焼き志願者が多くこられるようになり、年々若い仲間が増えています。将来私たちが地元紀州備長炭を背負って立つようになると思いますが、みんなで支え合いいながら頑張っていきたいと思っています。
森口 勝
大正14年12月15日生まれ
●16歳の頃に地元製炭者の方に弟子入りし、現在に至る。それまでの間、炭焼き以外の仕事もしたが、通算すると40年以上は炭を焼き続けている。現在では長男が後を継いでくれるようになり、親子で備長炭製炭に励んでいる。現在は本物と呼べるものが少なくなってきたように思えるが、私たちが作り出す紀州備長炭はまぎれもなく本物という自負をもっています。本物を作り出すために私たちは長年の苦労を重ねてきました。その苦労と努力がやっと報われる時代がやってきたことに、大変喜びを感じています。本場における備長炭生産量はわずかな量ですが、これからも出来るだけ多くの方々に本物の備長炭を知っていただけることが出来たら幸せです。そのためにも精魂込めて、どこにも負けない紀州備長炭を息子と2人で焼き続けていきます。
森口 道夫
昭和31年10月23日生まれ
●親父と共に備長炭を焼いています。今、この仕事に燃えています。備長炭が私を熱くさせているのです。私を引き付ける、他の仕事では味わうことの出来ないこの仕事の魅力は何なのだろうと、ときどき考えることがあります。仕事の内容は非情に厳しく体力のいるものだが、それにも勝る魅力とは世界一の品質の木炭を自ら生み出す事が出来るという満足感ではなかろうか。自分はこの村に生まれこの仕事に就いたことを誇りに思っている。なぜなら、この村でなければ世界一の備長炭は生まれないからだ。他でまねの出来ない理由とは、良質の薪炭林を育て上げるこの土地の素晴らしい磁場エネルギー、また備長炭窯に最適の土があるからだ。これら最適な条件下で生産する南部川村備長炭は、この土地と我々が存在する限り世界一を保持し続ける自身があります。

他にも29名の生産者の方々が頑張っておられます。


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